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Hen Gap Lai SGN 4

ライブは思いっきり盛り上がり、僕らの名刺代わりに挨拶も出来た。久しぶりならではの感触だった。初めて会った人との関係はライブで作ってきた。それも同時にかなりたくさんの人との縁が生まれて今に至っている。ここ三年間でそういった感情は麻痺してしまった。機能しなくなっていた感情が再び揺さぶられている。そんな不思議な気持ちの不安定さ、この心地よさが音楽を続けている理由であったんだと。

終了後もっと話もしたいがまずはホテルに戻らなければならない。グラブでタクシーを呼びホテルに戻る。「10分後ロビー集合ね」というとダッシュで部屋に帰る。ダッシュで着替えてロビーに戻る。いつもの感じの慌ただしさもいい。20時。とんぼ返りで皆の待つ宴会場へ向かう。それにしても普段自分たちが来ないエリアは新鮮である。ホーチミンはかなり詳しくなったと思っていたが、今回も初めて入るエリアがたくさんあった。まだまだだね。狭いようで広いホーチミン。住んでいる人たちと一緒にもっとこの街を深く知りたいものだ。打ち上げ会場は日本的な居酒屋。まるで東京で飲んでいるのと変わらない。違うとすればお店の広さかな。日本のように狭いところに効率的に詰め込む建築ではない。今回、ヘムヘムのメンバーともじっくりはなすのは初めてであった。

みんないい感じ。バンドマンだからね。YORIのオーディション以来ベトナムが好きになり移住をしてしまった古庄さんも合流してホーム感がでてくる。不思議だよね。僕らとの出会いで確実に人生が変わってしまった人もいる。もしかして今回のANIROCKSのメンバーもそうかもしれない。日とは人知れず影響し、人生の選択しをまた変えてしまうものなのかもしれない。たくさん話、たくさん深入りして、再会を約束して店を出る。気分は絶好調である。

そして、2230。フイタンの待つHOZOのフィナーレに向かう。フィナーレを飾るアンカーはVietnam All Stars。Anh quan率いるベトナムのスーパーバンド。そして歌うのはUyen LinhとVan mai huongだ。ほぼ身内ではないか。こんな素晴らしいホーチミン最大のフェスのトリを飾るシンガーの2人。会場で会えるのだろうか。酔いの回ったメンバーとはぐれないようにタクシーで向かう。

しかし、結果としてやはりはぐれてしまった。どこにいるの?と探し回りようやく合流して会場に入ろうとするがセキュリティが厳しくはいれない。すかさずhuy tuanを予備なんなく入れてもらう。時間もおしにおしているらしくまだラス前のプログラムだった。ここで会場入りしたアンクアンと再会。会えるかなと思っていたUyen linh、Van Mai Huongとも楽屋で会えた。Van Mai Huongは年末にまた日本に行くよといっていた。そして彼女たちのパフォーマンを待つ。そんなときに事件が発生したんだ。

2330を回った頃だった。ツアーメンバーの一人がステージから落ちてしまった。ステージ裏のイスに座って見ていたのだが、3m位の高さから椅子の脚が落ちてしまいそのまま転げてしまったのだ。一瞬何が起きたか、うちのメンバーとも分からなかった。幸い真下にイベントの無事を祈る祭壇ができていた。そこでワンクッションあったおかげで大事にはならなかったがもし、何もなかったら、何かあってもそれが鋭利なものであったら本当に大惨事である。誰が悪いわけでもない、スタッフもすぐに救急車に乗せてくれて念のためと病院にはこんでくれた。皆心配している。ある意味申し訳ない。メンバーをきにしつつ、全体の進行に影響のないように振る舞う。彼らはプロフェッショナルのイベントスタッフ。しっかりと対応してくれているので僕があたふたすることはない。

そして、フィナーレがはじまる。彼女は大丈夫か?としきりに気にするhuy tuan。僕らは彼が気にしないように平静を務めた。気もそぞろであるがステージは素晴らしいものであった。メンバーにもこのベトナムのアーティストの素晴らしさを生で見て貰えて良かった。これがベトナムのトップ。それを知ることはとても重要である。フィナーレも終わり2430、主催のみんなと別れを惜しんでホテルへ。素晴らしいイベントに参加させて貰った感謝は忘れない。

帰路につく中みんなの不安は拭い去れない。病院で検査をして結果待ちという。本人は大丈夫とのことなのであとはあまり本人に気を遣わせないことだ。だだでさえ、申し訳ないと思っているに違いない。痛い思いをしてしまったので、せめて心のケアはしてあげたい。ホテルに戻りメンバーは解散。明日の集合時間を告げて部屋に戻ってもらう。その間も連絡をするが検査結果を大きな病院に転送して結果を受けてからということで中々帰ってこない。ロビーのソファーでうとうとしていると連絡があり0330ようやく戻ってきた。今日はいろいろなことがあった1日。ユックリ休むといい。

 

2022/12/12
昨日の疲れもあり帰国日でもあるので、午前中はゆっくりと。恒例の朝礼もなしで休むことにする。昨日までの出来事をメモに取る。最後のトラブルは別として、3年ぶりのツアーとしては良いメンバーで良い実績が残せたと思う。1130にロビー集合として唯一のフリータイムを過ごす。初めてのメンバーも多いのでドンコイにいき1430までフリーとする。GYPSYの3人は今は双日の社員となったナム君との再会のためにレストランへ。ヘムヘムの安部さんともジャパンフェスの打合せを兼ねてランチを一緒にする。2006年煮始めてベトナムに来て16年が経つ。昔来たことのあるレストランはよりおしゃれになっていた。

当時メニューに日本語版があり「人肉いため」というのがあり震えていたがそれは「ニンニク炒め」だったよね。と懐かしい話も。ナム君とも日本でハノイで、そしてホーチミンでいろいろなことを仕掛けていった仲間。会えて良かった。ランチ後集合場所のカフェに戻り1430にホテルに戻る。そして15時に出発。電通との打合せに向かう。来年の50周年事業に備えるためにまずは情報交換は重要だ。打合せ後にホテルに戻りチェックアウト。18時に風子たちと夕食を食べに向かう。最後はベトナム料理。いつもながらに帰国日は寂しい。別れの時間はあっという間だ。2030市内を出発して空港に向かう。今回も弾丸ツアーだったと思う。

 

21時過ぎに空港に到着するとそこそこ混んでいたがおもったよりもスムーズにチェックイン。手持機材もスムーズに通関。中々mikoちゃんが来なくて心配したが、荷物チェックで1度カウンターに戻ったりチケットが見当たらなくなったりと最後にプチトラブル。まあ、よくある事なので旅の想い出としてはよかったんではないかと思う。小さいトラブルは旅の耐力をつけてくれるものだ。帰国便もばらばらのため、一足先に解散。搭乗ゲートに向かった。

 

第六章5幕はここでおわり。3年間の空白は誰もが望んでいないもの。それでもこうして再びスタートができた。冷え切ったエンジンをかけ直し、音楽をやることの価値を再認識。それにしても大きかった3年というブランク。活動の意義すら忘れかけていた時のギリギリの再スタートであったと思う。やりたいことをやりつづけることは決して簡単ではないがそれを継続することもまた喜びである。

 

今回は新しい仲間も増えた。3年も経つのだから当然だろう。そしてその中でどう進めていくか次のステップに向かって音を作り続けていこう。音楽の厳しさも思いだした。実力勝負。躊躇する場面もあるが、それでも前に進まなければ見えない景色がある。そしてどんな困難であっても人は乗り越えられると思い続けたい。急な決定にもかかわらず参加してくれたみんな、プロフェッショナルなメンバーでのツアーは楽しかった。新しいスペシャルな仲間、ずっと旅を続けた円熟の仲間。両輪のバランスで成立できたツアーでもあったと思う。12月13日日本に戻る。アナウンスされる東京の気温を聞くだけで身が引き締まりそうだ。たくさんの課題と成果を残してくれた旅と仲間に感謝。まだまだ止まることなく次のSTORYを作り続けていきたい。

 

 

GYPSY QUEEN Road to Asia#55-Hen Gap Lai-
2022/12/8-13

先日思わぬ訃報があった。中国武漢でのコンサートの時にとても御世話になった呉建民さんが急逝された。つい最近、新年の挨拶をして「今年こそ武漢であいましょう」と話していたところだった。亡くなった理由はあえて聞いていない。呉さんとは2011年、12年と武漢で御世話になりその後連絡を取り続けていた。そこまではよくある話。現地で知り合った人との交友に過ぎない。ただぼくらは「また会いましょう」を実際にやれた。18年。久しぶりに呉さんに会いに行った。なんのためにいったか。それは「呉さんと飲みに」いったんだ。その時はものすごく歓迎してくれたし、政府の人や日本商工会などいろいろ紹介してくれた。たっぷり飲んでたっぷり話した。その時にでたのが「大武漢」でのJapan Festivalだった。僕らはその時の約束を大事にずっと話を続けていた。2020年に実施しようと準備を進めていたときにコロナが発生した。これはどうしようもなかった。それでも21年から話を再開させ、かなり紆余曲折あったが、22年7月。15万人もの人々が「JAPANFESTIVAL湖北」の会場武漢の漢街にあつまった。この場所は僕らと呉さんの想い出の場所でもあった。この時は参加できなかったけれど、ようやく僕らの約束はかたちになった。そして未完成だった部分、「自分が行けなかった」部分を今年こそはと思い、年末も、そして年明けも「もうすぐ会えますね」と言葉を交わしていた。あのちょっと濁ったニヒルな呉さんの声は忘れられない。とても残念だが、それでも呉さんの人生の中の最後となってしまったときに自分が存在していたことは友としての誇りだ。交流は簡単なことではない、思いだけではなんともならない。だけれど、それを超えた強烈な人間関係でクリアできることはたくさんある。再会は叶わなかったが再びあの町に行くだろう。行ったときに呉さんのいない武漢の寂しさを知るだろう。ご冥福をお祈りします。

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