Meet in Beijing
〜中国大陸7,000km 果てしない夢を乗せて〜
DALIAN
中国国内上空を飛び1時間半弱。
この広大な大地には実に数多くの湖が存在する。
今までまったく知らなかったが。
僕らは渤海を越えてリャオトン半島の先端、大連にたどり着く。
大連に降り立つとそこはヨーロッパテイスト溢れる街並みだった。
大通りから一歩路地裏に入ると昭和20年代の日本のような風景。
裸電球に炭を焼く煙やなんの匂いだろう、いろいろなものが混ざり合っている。
まるで映画のセットのような街だ。
そんな街の隙間に30階を越す立派なホテル群が見え隠れする。
アンバランスだ、明らかに違いすぎる。
でも、ここにすんでいる人たちはとっても生き生きしている。
ビデオカメラを見ると「それなーに?」と不思議そうな目で聞いてくる女の子。
きっと未来の物質が飛び込んできたとでも思ったのだろう。
街並みは古いがそこにいる人たちはとっても素朴な顔をして好意的な表情をしてくれる。

大連の街角で
子供の頃はお金を使わなくても遊べた。
夕方真っ暗でボールが見えなくなるくらいまで路地で野球をしていた。
そんな頃を思い出した。
夜、勝利広場のある大連駅に向かう。
大連の駅舎は2階建てになっていてまるで上野駅のよう、いや上野駅そのものだった。
駅構内も映画の中の駅のようだった。大きな荷物をたくさん抱えた人たちが行列を作っている。
あわただしい、ざわめかしい、活気がある。
どれもこれもちょっと怖いような感じ。
でも、こうしてタイムスリップしたように日本的駅舎が見られるなんてなんだかうれしく思える。
活気に溢れる大連。
どんなコンサートになるのだろうか?どんな人たちが来てくれるのだろうか?
この日、ちょっとした空き時間を利用して卓球をやった。
世界選手権の勝者は中国となった。
中国人はみんな卓球を習っているのだろうか?
ミスター・リー本当のことを教えてよ。
我が日本チームの温泉卓球では歯が立たなかった。
いよいよ本番の日を迎える。会場は大連人民文化倶楽部。
格式のある劇場だ。
会場は大連駅からまっすぐ伸びた道の先、中山広場にある。
ここにはラストエンペラー溥儀も泊まっていたという格式ある大連賓館(大和ホテル)
も立ち、市民の憩いの場、といった感じだ。
会場内に入り、ステージに立つとまるで大正時代の(映画で見た)劇場のよう。
動員数は1200人程度との事。気持ちが入ってきた。
リハの合間にデエモンがCDをプレゼントしてくれた。
サインには「すばらしき仲間GQ」と書いてくれた。
ふとしたきっかけ、こんな出会いは奇跡に近い。
限りなく小さな出会いの確率の中でデエモンと出会えたことは僕の人生のなかで大きく育つだろう。
そうだ、オーストラリアにもいくかな。
英語も勉強しとかないとな。
まあ、簡単なこと。やれば絶対できると思う。
できなければ「できるまでやる」だけだしね。
そうして本番が始まる。今回はNEVERを加えた。
この曲は僕が中国行きが決まってから書いた曲、
だから歌詞も中国と日本をテーマに書いたもの。
へんな話だが、バックで演奏していたときしのんの歌う歌詞を聞いてちょっと泣けてきた。
[違う文化の中で想いはせて 同じ夢を見るのは偶然だろうか?
あの日描いた夢日記 破り捨てずにいた 読みかえせばとまらない夢のしずく]
Never
歌いだし部より
思い描いて詩を書くことはよくある。
でも、こんな大陸をテーマにした曲の歌詞のとおりの体験を今している。
想像の世界で書いた曲が今、その伝えたい中国の人たちにここ大連で聞いてもらっている。
うれしかった。心のそこからうれしかった。
今回の公演は気合が入った。
環境面を言えばモニターもない環境だったが、音楽は環境でやるものじゃない。
聴いてくれる人とのコミュニケートがどれだけできるかで決まるのだ。
正直、ちょっと心配だった。
これといった理由は無かったけれど、今まで回ってきた土地よりもヨーロピアンな感じが
なにか冷たく見えたのかもしれない。
弱気になってる?そんなことないと思うのだが。
「考えすぎ」といわれる自分の憶測はステージで紹介された瞬間に吹き飛んだ。
一曲、一曲ごとの大歓声、そしてしのんの中国語への反応。
なんだしのんは中国語で立派にコミュニケートできるじゃないか。
できないといったくせにこれだけできれば120点だよ。
そう思う。
お客さんの反応が一番わかりやすい。
もっとも確実なアンサーだ。
ステージを終えるとサインや握手をたくさん求められた。
片言の日本語で話し掛けて来る人もいる。

格式ある劇場 終演後はサイン攻め
中国と日本、なんだか世の中では難しいといわれている。
でも、今、この会場では同じ人間同士、人類の仲間として笑顔で抱き合っている。
音楽って最高の平和的戦略兵器だ。
人が最初から嫌いな人はいない。僕らは僕らから中国に行って笑顔で握手を求める。
中国の人もそれを理解してくれて答えてくれる。
英語は一切話せないといっていたMr Leeも今では日本語も覚え始めた。
英語については僕らよりも話せる。
「なんだ、できるじゃない。」
きっと世の中には難しいことがあるのだろう。
それなら僕らは音楽をもって世界各地で仲間を増やしていこう。
それが日本国にも貢献できるのであれば、それは僕らの仲間全体の幸せにもつながる。
あらためて、あらためてそう思った。
しのん
「大連のオーディエンスは特に最高でした。ほかのアーティストには通訳がついたけど、『しのんの中国語はGOODなので』
と言われ通訳がつきませんでした。それが功を奏したのか、とても暖かい拍手。『ありがとう!』と客席から日本語の
歓声が飛びました。間違えたときも、『ちょっと待って』と中国語で言うと、どっと笑い声が起きました。あまりの暖かい
客席の顔に、最後の曲では泣きそうになりました。大きな歓声の中、『ウォアイニーメン!(愛してるよ!)』と投げ
キッスして楽屋に戻ると、どっと涙が出ました。ホントウに心から叫んだよ、愛してる!って。
片付けが終わってバスに戻ると、ちょうど日本の友人から携帯に電話が入りました。またまた感激。よく泣いた夜でした。」
その晩は興奮さめやらずドイツ人のヘリーと飲んだ。
10年前におぼえたドイツ語も宴席では十分通じる。
彼らも日本語はわからない。
同じ共通語を探して深夜の日/独語会話は盛り上がる。
明日も早い。大連の夜はふけてゆく。
Shenyang
早朝。
僕らはホテルを出て大連駅に向かう。
大連からはバスで移動だ。
南京の時のバス移動のつらさはまだ記憶に新しい。
慎重に(なにを?)乗り込み時間経過を待つ。
目指すは瀋陽、ここも日本国と中国の間ではいろいろ難しいことがあった土地である。
歴史の扉を紐解くとき、過去についての問題にはさまざまの見解がある。
きっとそれもとても大事なんだろう。
でも、もっと大事なのは今の僕らがどう感じどう付き合えるかということだと思う。
今を生きる中国の人たちは明らかに僕の仲間。大事な異国のフレンド。
だから楽しくやりたい。
瀋陽の人たちにも僕らを通じて新しいフレンドシップを築いてもらいたいと思っている。
役目は重大なのだ。
そうして窓の外の荒涼とした風景を眺めること4時間。ようやく瀋陽についた。
さっそく現地の演出公司の人と会い、[スターハリウッド]というところに連れて行かれた。
ここは瀋陽一番の若者が集まるスポットらしい。
そして!何日かぶりの洋食。
ポテトフライにケチャップをかけるうれしさをみんなは分かっている?
食事も神からの授かり物。当たり前のように食べちゃいけない。
おいしい!コーラにレモンが入ってる!
喜びをかみしめる。

中山広場の毛沢東主席の銅像。でかい!
食後、モニカと話をしたりして時間を過ごす。
モニカは母のような存在だ。なぜか話していると落ち着く。
周りへの気遣いを忘れない。立派だよね。
当たり前のことが当たり前のようにできない時代。ましてツアーなんて
ストレスがたまるもの。それでも彼女は立派だ。
いつか彼女の住む町テキサスに行こう。
エルパソは大好きな西部劇の街。カントリーロードでも一緒に歌おう。
夜からはリハーサル。会場に向かう。今回もいつもと同じ。
到着するまで会場は分からない。
連れて行かれた会場は、中華劇場というそれは立派な公会堂だった。
室内公演としては今回、文句なしの一番大規模な劇場であろう。
昔の日本の建造物であろうか?どこか丸の内の丸ビルに似ている。
天井の高さ、石つくりの装飾されたフロアデザイン。
座席のレトロ感も大正時代の建築物そのままだ。
なんだかホッとする。長い通路を通って会場に入る。
バックヤードは見事なレンガつくり。
ここだけでもすばらしい撮影スタジオとなるだろう。
ここでは特に大きなトラブルも無く、何よりもいろいろ手伝ってくれるスタッフが多く、なんだか
えらくなったような気分だった。
といってもマイクをセッティングしてくれたりとそういったことだが、アンプを運ぶところから自分でやっている
最近の僕らの敷居は低い。
なんでも喜んで食べるよい子のようだ。
よい子は育つ。すくすく育つ。
体だけでなく心も技術もそうであればいい。と思う、中華料理生活13日目の私。
リハを終えてホテルに帰る。明日は本番だ。
翌朝、胃のあたりに痛みを感じた。
油物でもなんでも来いとおもっていた自分だが、中国4000年の歴史にはちよっと疲れがでたようだ。
朝食をキャンセルし、日本から大事に旅をさせてきたカップラーメンを食す。
「いやーうまい」なんて声は出ないが、懐かしい味だ。
僕の味覚はまだ日本人なんだな。
少しずつ中国にいることが日常となってきている。
余計に日本の味が懐かしさを感じさせる。
ホテルの横に10m以上あるしのんの垂れ幕がある!
東京、渋谷109のHitomiの垂れ幕は印象的だった。
ここ瀋陽の人たちはどんな目でみてくれるのだろうか?

巨大ポスターの前で
会場入りをすると早くもダフ屋らしきひとがたくさんいた。
会場を待つ人たちにポストカードをプレゼントしようとしたら大勢に囲まれてしまった。
カードを渡す手をつかまれてそれからあとは大混乱「やめろよ、こら」と日本語で言っても
餌に集まった鯉の群れごとく収集がつかない。
恐ろしい勢いで人が集まってくる。
命の危険すら感じあわてて会場にもどる。
「ふーっ、危なかった。」
リハのあとのまったりとしている時間に瀋陽電視台の取材がありメンバーからのメッセージを求められる。
もちろん、「我 一定 再来 瀋陽」だ。
ほかのメンバーも片言で自己PR、慣れてきた証拠だ。
そしてここでも進行のおくれはなんのその、定刻19:30にコンサートははじまる。
2500人を越える満員の中華劇場。お客さんは若い人が多かった。
反応も良く、みんな好意的に見てくれている。
ついつい体が動いてくる。
こんなリラックスした気持ちでできるなんて今までにぜんぜんなかったことだ。
観衆との息合わせも分かってきた。
中国の人は本当によく話を聞く。
MCで語りかけるとシーンとし、話終わると一斉に拍手が来る。そして次に話し始めると
一瞬のうちに拍手は止み、みんな集中してきく。
だから日本式に拍手の合間に演奏をはじめたり拍手の合間にMCを入れると
お客さんが拍手をするタイミングを失ったり、とまどったりするのだ。
だから、ちょっとゆっくりと、曲が終わったら拍手をもらう間合いをとって話し始める。
そういった配慮が必要だ。
そうするとステージは面白いようにうまくまわる。
終了後も多くの人たちがサイン&写真をとりに殺到する。
この風景も慣れてきた。僕らも余裕を持って笑顔で対応できるようになってきた。
一週間前は引きつっていた笑顔も今ではサマになっているのではないか?などと思いつつ、ペンを走らせるメンバー。
会場には時折日本語を話せる人がいる。
そういう人に片言で声をかけられたときはひときわうれしい。
20年前に日本にいた人や日本語を勉強している人。
たくさんいるのだ。
そういう人とのコミュニケーションも刺激的でかつ友好的でうれしい時間である。
終了後はスターハリウッドでパーティがあった。
昨日もきたがここはアメリカン。客層もほとんどが外国人というインターナショナルな場所である。
ここではツアーメンバーのデーモンとステージを借りてセッションが始まった。
曲は「stand by me」だ。
音楽は共通語。
酔客も含めダンスパーティとなった。
パーティも終わり現地スタッフと別れ、12時過ぎにホテルにもどる。
気持ちを入れ替えて明日の用意だ。
残るはあと一回。もう、終わってしまう。僕ら何を見つけたのだろうか?
Beijing(北京)編
Kunming(昆明)〜nanjing(南京)編
Dalian(大連)〜Shenyan(審陽)編
Tenjin(天津)〜Beijing(北京)編
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| 僕らが目指す理由 |
現地レポート |
公演内容 |
たくさんの写真 |

GYPSY QUEEN の北京語の楽曲です。現在5曲です。
