Meet in Beijing
〜中国大陸7,000km 果てしない夢を乗せて〜
BEIJING
北京首都国際空港。日本からおよそ4時間でたどり着いた近くて遠い大地中国。
時差はたった1時間。時の差は無いに等しい。
排気ガス臭のする空港に降り立ち北京市街に向かう。
あまりにも整然とした町並とそこに行き交う自転車、
人の波を見て「我来中国」を実感する。
よく「国によってイメージカラーがある」という。
ここ北京は赤と緑。そんなイメージだ。
ついてまもなくわかった、僕らの最初の試練は考え方の違い。
スケジュールは次々に変わる。ぎりぎりまで教えない。決まっていない、が常識。
さらにいうなら必要以上に教えてくれない。
不満を覚えつつも、ここは日本ではないことを認識。
「異国に来ているのだからそこのルールに従う」これはすべての基本かもしれない。
一歩街に出れば扉のないトイレとビール1本30円のこの国、明日のスケジュールなんてまったく
遠くて先のこと。なにも分からない状況で「今」を過ごすことに懸命に生きてゆく。
そういう考え方でよいのかもしれない
北京での公演はエキサイティングだ。開幕式会場は西単文化時代広場。
どれくらいいるか分からない聴衆。巨大な建造物前の整然とした
ステージと電圧もまともに安定しないアンバランスな環境。それでも僕らはステージに立つ。
奇異な視線が飛交う。見た目あまり変わらない僕ら日本人はまだしも共演者はギリシャ人、オーストラリア人、
アメリカ人そしてドイツ人の多国籍軍。存在自体が不思議なのだろう。
今回の公演は中国政府主催の「北京で会いましょう」という国際音楽祭の一環として招聘されたことから始まる。
その音楽祭の中で「欧亜風情演唱会」というタイトルの元、数組のアーチストで中国各地を巡回するのだ。
何故?僕らが?
というとそれは良くわからない。
ただ僕らは中国語を愛し、それをメロディにのせた。
それを聞いてくれた中国の方が好感を持ってくれた。そして出演の機会を与えてくれた。
簡単に言うとこうである。
もちろん、その過程には関わった人すべての努力と大きな好意があり、その上で
なりたっている。
この話をするだけで数日間かかってしまう。それくらいのドラマがあった。今回は記載しないが
いつか話してみたいと思う。本当に素敵な人々との運命の出会いを。
機内で最後のお勉強 北京市内は活気にあふれ 歴史的建造物の数々
「大それたことを」とも思うがそれなりの布石と努力はしてきた。
勉強もしたしいろいろな調整もした。
だから、ためらうことなく中国大陸に僕らの歌を乗せてゆきたい。
凱旋帰国になるか強制送還になるかは今日から始まる。
おのずと力が入ってくるのが分かる。
ステージが始まろうとしている。
珍しくメンバーに緊張が走る、まあ当然のこと。でもステージにあがれば主導権は僕らにある。
特に今日は今回のイベントの一番最初のアクトだ。これからすべてが始まる。
とても光栄なことではないか!
「ニーメンハオ」見よう見まねの北京語で観衆に一発お見舞いする。
日本人バンドから飛び出たとっぴょうしもない北京語に驚きと笑顔が映る。
これでOKだ。あとは演奏すればいい音楽には言語の壁はないのだから。
あっという間のステージを終えてみるとそのあとは取材の嵐だ。
考えてみればテレビの取材も新聞の取材も受けたことがなかった僕ら。
それが今はどうだ。花束の山と握手を求めてくる人の波に「シェシェ、シェシェタージャァ」
笑顔も引きつる。しのんは驚きの涙さえ浮かべている。
通訳を通して日本の代表よろしくコメントをのべる。
「中日の友好の掛け橋として音楽の交流を深めていきたいとおもっています」
「中国はとても大きいし町並みもきれいでびっくりしました、日本の友人にも僕らが体験したことを
伝えてゆきたい」
なんとも代表的なメッセージである。
しかしこれは本音。
本気で僕らは僕らの音楽で日本と中国をつなごうとしている。
そんなばかげた考えが今この場にたどり着いた唯一無二の理由であると思う。
取材を終えるとスタッフがそばに寄ってきて「NEXT!」。
ん?今日は開幕式だけではないのか?
スタッフに従うままに移動した先は北京の首都図書館広場であった。
照明の映える中、僕らは二度目のステージに立つ。ここでもどこからきたのかわからないほどの
聴衆が集まってくる。
そうか僕らは「外タレ」であったのだ。
途中で電源が落ち、スモークか火事かわからない煙幕がたかれ、若干ながらとまどいを隠せない
ステージを終える。疲れた?そうではない。でもやはり疲れた。
それにしても、電源ダウンにはまいった、復帰してもテンションが落ちているのがわかった。ステージ後にも無口になるメンバー
日本だったらありえないトラブル。でもここは中国なんだからしょうがない。
しのんも涙を浮かべている。悔しいのか?そうかもしれない。
バックが浮き足立ってはいい歌なんて乗せられない。
もうしわけない。こんな事で自分を保てない心の未熟さが悔しい。
環境はよくなく、僕らだけでなく、ウガンダの人や中国人の出演もあり楽屋もばたばたである。
なんとかすべてのプログラム終了。
長い一日とはこういうことなのだろう、初日でこんなコメントは大仰か。
まずは一日。ツアーカレンダーに×を一つ付ける。
北京の初日が開けた。洗礼を受けた一日だったと思う。
今日は明日の保利劇院のリハーサルを行う事になった。
事になった、というのは実際昨晩の夕食後までスケジュールが出ないためであり、こういう表現
になってしまう。
昨日のトラブルもあり、テンションは落ち気味。でも、時間はどんどんすぎていく。
劇場のリハーサルは設備はすばらしいが電源供給などソフト面でのサポートが弱い。
しかし、ここでも現場主義よろしく、大きな声で主張するとどこからともなく欲しいものが届く。
ここ中国、異国のルール「欲しい物ははっきり言う」なのだ。
初日の大変さのおかげで二日目でこの国のルールを知ることが出来た。
本番に備えての夜は北京の繁華街に出る。
中心地の壮大な建造物とは違い、繁華街では生の北京の生活が垣間見える。
す、すごい人。そしてものすごい活気。
街には喧騒とロックに溢れ、北京の若者の動向が伺える。
懐かしい気持ちになれるこの町はとても居心地がよい。
嫌いなものはといえば「ポップコーンが甘いこと」くらいなものだろうか?
僕らはPOWER HOUSEというライブハウスで食事をとった。
当然の流れだろうか?僕らもステージに上がることになり3曲ほど演奏することになった。
セッションであれば僕らの得意なところ。中国人ギタリストとの競演はとってもエキサイティングであり
音楽によって国境も言葉の壁も一瞬に崩れさることを実感した。
Power Houseにて
ステージを降りた後聞いてみるとこのギタリストはゴンミンさんといって日本にも数回ツアーで来ている人だという。
現在は北京音楽大学の講師ということでその素晴らしいプレイにも納得。
僕らもそんな有名な人と競演できたことを誇りに思いたい。
北京最終日の朝は早い。夜も遅いが朝も早い。こちらにきてから思うのだが北京の空はいつも曇っているように思える。
北京曇天。そういう感じなのだろうか?
保利劇院に到着しサウンドチェック、リハーサルとすすむ。
緊張は無くむしろ今までの集大成としてのステージにわくわくする。
この気持ちはなんなのだろう?
こんなチャンスは二度とないから緊張して台無しにしてしなうこと自体がもったいない。
体のリズムがそう教えてくれているのだろう。
北京の保利劇院は劇団四季や坂本龍一さんの公演もおこなわれたとても大きな劇場。
北京中央電視台のオンエアもあり今回の北京公演の中では最も規模が大きいイベントだ。
そしてそのステージに立つ僕ら。
保利劇院のステージ 巨大なレストランで
しのん
「リハ終了後、私は不思議に落ち着いていました。昨日のPOWER HOUSEのお客さんがくれた暖かい拍手のせいかな、
大きな会場も、テレビの収録もその時の私には大した問題ではないように思えました。
それでも、さすがにステージのそでに立つと足が震えました。私には重荷だったのかな・・・。
そんな考えを振り切ってステージに立つと、湧き上がる歓声、まばゆいばかりのスポットライトが私に降り注ぎ、
その時、私はふっと一人きりになりました。暗闇の中、スポットを浴びて歌い踊る私。そして小さい頃に見た
はかない夢を思い出しました。『私、ピンクレディになれた!』」
ここちよい興奮の中でステージはあっという間に終わった。
観衆の評価は終了後の拍手でわかる。
僕らのたどる一つの大きな曲がり道。
「中国語で曲を作って北京でライブをやろう!」居酒屋の片隅でそれはよくある「風呂敷を広げた」話の一つだった僕らの中国。
今こうして現実に包まれ、感無量である。
感激の涙、しのんにもようやく「いい涙」が溢れ出した。北京にきてから3日目。
さあ、次にいこう!次の夢が待っている。僕らにはあまり時間が無いのだ。
Beijing(北京)編
Kunming(昆明)〜nanjing(南京)編
Dalian(大連)〜Shenyan(審陽)編
Tenjin(天津)〜Beijing(北京)編
僕らが目指す理由
現地レポート
公演内容
たくさんの写真
GYPSY QUEEN の北京語の楽曲です。現在5曲です。