
2002年秋。 今年は本当にいろいろな事があった、3回の中国公演を経ていろいろな事を知ることができたし、なによりも素晴らしい友人を得ることが出来た年であった。もう、最高である。でも振り返る事ばかりの日々は辛い。たとえ、まだ、帰国から二ヶ月しかたっていなくても僕らの中国はどんどん思い出に変わっていった。 また、行きたい、年末が近づくにつれ、「今年の総決算」を語りたくなるのが日本人である。挑戦の一年を終え、希望の2003年は本当に僕らにやってくるのだろうか。あまりにも僕らにとって激動の一年だった事が行く先を不安にさせる。爆発的に売れてしまった製品はその翌年がきつい。前年の勢いを求められるからね。たとえてみれば、売れるぞ売れるぞとたくさん言われた一年。でも恐ろしい事にそういえるほどまだ売れてもいない。そしてその勢いだけが翌年に影を落とす。弱気と強気のの差は確実性の有無による。そういう意味ではなんの保証もない僕らの「2003年中国予想図」はかなり寂しいものだった。 「香港でカウントダウンとかいいよね。やっぱりさ、中国のお正月ってすごいじゃん。」 「でも、中国は旧正月のほうががもりあがるんじゃないですか」 「去年の春節すごかったなー」 「あれは今年でしょ」 「あーそうでしたか、はやいっすねぇ」 「いやいや、お正月はお正月だよ。香港とかさ、爆竹とか凄くなっちゃったりしてすんごいとおもうよ。」「きゃーおもしろそう〜」 「こわい〜」 「じゃ、行っちゃおうよ。カウントダウンライブを中国でやろうぜ。」 「いいですねぇ、どこかやれるようなところありますかねぇ」 「ま、どこかさ、いけばなんとかなるじゃん。」 「ん?そりゃそうだ」 「ま、いったら白酒のみますか」 「それいいっすねぇ」 誰もが本気にしないこの会話を1人だけ本気で話している男がいた。目標をもてた満足感。そして、「あー言っちゃったら本当になっちゃう」と怯え半分わくわく半分の女がいた。。。 いざ香港へ!第一歩はいつもの如く都内の居酒屋から始まった。 香港を意識した頃、いや正確には「今年また中国にいければ」といったようなものであったに違いない。根拠もなにもないぶんはじめての地に憧れを持つ僕らだった。 年を越すときに中国にいたいという気持ちはかなり以前からあったがただ中国にいてもその意味をなさない。なんといってもお正月が大好きな日本人。紅白をみて新春の番組をみながらお持ちを食べるという「普通の新年」はいいものだ。そんなときくらいゆっくりしたい気持ちもある。そういう気持ちを乗り越えられるパワーが必要だ。それにはカウントダウンライブがおあつらえ向きなのだ。でも、どうすれば? 答は出ないしあまりにもイメージがつかめない出演手段は何も出来ずに僕らを凍結していた。だって、いつ、どこで、だれがどんなことを主催して何をやっているかなんて一度も見たことがないのだから。せいぜい、NHKの新年の番組で「世界各地の新年です」といって映像をちょこっとみるくらいなもんだ。「うーん、どんなもんだろうか」考えるばかりで何も出来ない時はたち、すでに11月も後半を迎えた。「今年はちょっと無理かな」あきらめのような弱気のセリフがでてくるころ。またもや危機一髪の僕らを救う天使が舞い降りた。 僕らには香港の有名なビッグスターという友達がいた。Beyondのwing。先の上海公演で競演をした香港のアーチストだ。初対面ではあったがその彼との交流は上海のバーでのセッションから急速に深まり、いまやメルトモにまで発展していた。そして、彼が日本でコンサートを行うとき、そのバックには僕らがいた。彼が何かをするときに僕らがなんらかのフォローをしてあげることができれば、と思った上海での気持ちが自然と形になっただけの事だが、それはさらに大きな仲間意識となり、堅く僕らを結びつけた。そして、そのバックにはさらに大きなスーパーアーチストファンキー末吉さんがいた。 彼も北京のライブハウスで偶然に会い、それ以降いろいろな交流を続けている。そして、ファンキーさんの提唱をもとに僕等はASIANFRIENDSという企画を立ち上げる事になった。僕等は中国で日本を理解してもらうために活動をしている、でも、日本に帰るとやはりただ珍しい事をしているバンドとしかみられない。「へー、中国語でうたうんですか」奇異な目なのだ。だからもっと中国のアーチストを日本で見る機会を増やし、そして中国人のアーチストの素晴らしさを感じてもらえる機会があればと思い始めていた。それを全面的にバックアップしてくれたのがファンキーさんなのだ。 爆風スランプというビッグネームでありながら中国アーチストの育成に力を入れている。というか中国のアーチストが好きで好きでたまらない人なのだ。中国を愛する僕らとは当然のように意気投合した事はもちろんのことである。 そして、そんな素晴らしい仲間たちとの接点からさらに香港のたくさんの友人を得ることが出来た。 マーチン。最初に会ったときにはwingのスタッフだとおもった。(その時はwingのスタッフとして来日しているから当然といえば当然)彼は香港ではbeyondの次にはといわれるポップアーチストでZENというバンドのリーダー兼ベーシストであった。彼らは基本的には広東語圏なのだが、香港という土地柄か英語での会話が中心であった。 そんな、マーチンとは「いつか一緒にコンサートをやろう!約束だよ」なんて会話を同じ「ベーシスト同士」したものだった。このときは本当に語学の大切さを痛感した。中国人と日本人の会話で片言の中国語と日本語が飛び交う。そして、その中に英語が交じり合う。その英語があまり得意でない僕等はどうしようもなく「言葉が通じない」日本人になってしまうのだ。英語の勉強なんて今まで何度となく行った海外旅行から帰るたびに「絶対習おう」と心に誓ったものである。そして、達成できず今まで過ごしてしまった。でも、強烈に感じる焦燥感。「あーいいたいことがもっとあるのに」悔やむ心はいつも土壇場にやってくる。当然、急に会話力がつくでもなく、本当をおもえばもっとたくさんの話が出来たはずなのに、良い朋友としてだけ別れを告げてしまった。まあ、きっといつか会う事があるだろう。すくなくても僕らがみんなと会いたいということは充分伝えたのだ。 さあ、いつか香港に行く日のことを考えて来年も頑張ろうではないか。 それ以降「英語もがんばろー広東語もがんばろー」がしばらく続いたのであった。 中国、モンゴル公演が終わり2ヶ月以上が過ぎた。報告資料や思い出の写真の送付やメールの挨拶から記録用のVTRまで全ての作業は終った。感謝してもしきれない朋友との思い出。新しく出会うことが出来た朋友との新しい会話。そして、香港のビッグスターとの思い出。素晴らしき2003年はもう少しで幕を閉じる。3回の訪中は僕らの中の意識を少しづつ変えて行った。 感謝の一年。その整理を始めたその頃。夢の中だけでもがき苦しむ僕らの思いのかけらをつっつくメールが届いた。 それは、wingと共に来日したマーチンからであった。 「はい!AKI みんなと会った事はとても素晴らしい出来事だったよ、僕の会社のボスにGYPSYQUEENの事を話したよ。ボスは12月31日のカウントダウンのコンサートにGYPSYQUEENに出演してもらいたいっていっている。Wingからもそうするように連絡を受けているよ。約束どおり香港のカウントダウンで会おうじゃないか。OKかな?」 ぬぅあにぃ〜!!! Wingのバックアップもあり香港のPuffinMusicが動き出したのだ。 会場は1997年香港が中国に返還された記念的な会場である。それ以外はまったく分からない。 今年の整理はもうしばらく後にしよう。だって、今年の記録がもう少し変わってしまいそうだからね。 でも、どうやって? これからどうすればいいのか?? ところで本当なんだろうか?? 夢想は続く。 |