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2002/09/14-2002/09/26 
日中国交回復30周年記念公演


1.日常への警鐘
偶然と運命の差は微妙だ ただ、100もの偶然が重なるとそれは確実な運命と変わる〜

「今日もなにかの記念日になるだろう」いつもそう思っていきるようにしていた。
ぼくらにも歴史的記念日その日がやってきた。

思えば第3幕のグランドフィナーレ。そのときから伏線はあった。そして今開く第四幕の序章が。




北京でのコンサートはある意味はじめての偶然以外の意志を持ったコンサートであった。意志って?そう、ぼくらはは今まで恵まれていた、恵まれすぎていた。毎度毎度繰り返す「え〜本当ですか!」も学習機能を持ち期待するようになってきた。きっと何とかなるだろう。そうなのだ。なんとかはなる。でも、それは糸の切れたタコのようにさまよっているだけではないか?全てはフローである。その都度のストックはされていない、というよりもストックしようにも偶発的すぎて、満足な体制が取れなかった事のくり返しであった。音楽は感情のものだ、だが、公演は計画的であり理知的でなければいけない。その理由は明確。関わっている人が発生するからだ。

そこで、今回の北京ツアーではこれでもか、と言うほど予定を満載した。およそ常識ではありえない、元気一本の学生バンドですら、立てないだろうこのスケジュール。頭を使った分だけ、行程はシェイプし、新たな予定が組みこまれる。近年、経費削減、効率化の推進など日本企業で当たり前に言われている事を音楽の現場に持ち出したのだ。結果、北京にいても故宮すら見れなかったメンバー。でも、それも当たり前ではある。ぼくらは観光旅行に来たわけではないからね。(といいつつ、万里の長城だけは見てもらった。この長城を見るだけでバンドのイマジネーションは広がる。メンバー共通のイメージ感として、長城の上での演奏のイメージは「今回」確保しておきたかったのだ)そこで、出会った人々、そこで生まれてきた話には現実味が含まれていた。なにしろ日本からきたロックバンドである。周りの取り巻きもいない、通訳と準備をしてくれる中国人スタッフもいない。ぼくらはぼくらの「意志」でつたない中国語で演奏会をきりもみしている。もちろん、偉大なる朋友たちが側面を支えてくれているからできる公演ではあるが、「こうしたい!」という意志は確実に持っていた。

その中で雲を掴むような話がいくつかあった。「シルクロードで日中友好のツアーをやってみないか?」「中国人アーチストと中国全土のツアーにでないか?」「国交30周年の記念行事で訪中して演奏しないか?」「中国でCDを出さないか」夢のような話ばかりだ。スモッグに煙る北京の夜空の中から格別に大きな星が落ちてきたようだ。こんなに輝いた話がまだこの国にはある!しのんの目にも星が映る。「謝謝!」その晩の僕らは今年一年はずっと中国だな、なんていう気になったに違いない。でも、まだまだぼくらは中国が理解できていなかった。日本に帰り、さっそく連絡をとり始めた。北京の夜に話したことを改めて話すためだ。いきなりではなんだかあさましい、一度持ちかえって改めて、という気持ちがあった。しかし。。。

シルクロードツアーは友好協会の偉い人が窓口であった。でも、その電話番号は間違い。聞き取りがあまかったのか。「どうしよう。。」とおもっても後の祭。あっという間に消えたシルクロード。まるで蜃気楼のように。北京の夜の会話は夢のごとし。演奏どころではなく、「連絡するといって連絡をよこさない日本人」というきわめて悪印象であっさりと幕を閉じたのだ。そして、同じように他の話も連絡は取れたが、話が食い違っていたり、具体的に会ってはなさねば進まない案件ばかりでことごとく砂壁の夢は崩れ落ちた。あまかったのだ。何故、その場で決められなかったか。いきなり具体論を話す事はあさましいとおもったのか?現場主義の徹底している中国とのやり取りは現場が基本だとあれほどいってたじゃないか?策士は策におぼれた。星のきらめきに目をとられ、お腹いっぱいのぼくらは大きな宝物を取りのがしたのだ。久しぶりの自己嫌悪がふきぬける。しかし、まだまだツキは変わっていなかった。国交回復30周年の記念事業の話が進んでいたのである。この話は北京でも良く会話されていた、また、帰国後の窓口や相談方法など細部に渡ってアドバイスを受けていたおかげで順調に話が進んでいたのだ。「進んでいたのだ」といういい方は決定に至るまではぼくらも半信半疑であり状況の把握が出来ていなかったからでもある。

そうして、僕らは急遽「日中国交回復30周年事業」という国家的行事の一部として中国へ旅立つ事になる。あまりにも突然の名誉。がたがたになった北京での交渉の全滅のあとだけに、実感の湧かない結果。それでも、メンバー全員この派遣の意義は充分理解していた。しかし、そこからまたもや苦悶の日々は続く。今回の急な決定により、メンバーのスケジュール調整が必要となってきた。当然、どうしてもはずせない仕事もある。もちろん、第一は今回の公演の成功である。しかし、100%いつでも大丈夫、というわけではない。このツアーの期間に潤坊のスケジュールが合わなくなってしまったのである。潤坊と同じプレイが再現できなければいけないとなると、誰でも、とはいかなくなる。出国は近い、申請作業も山ほどある。メンバーの申請等をこなす時間はどう考えても足りない。毎度のように中国ツアー前に起こす発熱、ジンマシン。中国は媚薬のように僕の身体を蝕む。倒れるのが先かたどり着くのが先か。

そして、もうひとつ大きな役目も生まれた。モンゴルとの国交樹立30周年の記念事業にも参加する事になったのだ。中国とモンゴルは近い。でも、まったく別な国だ。予備知識はまったくない。なんとなく、中国の隣というあいまいな考え方は僕らの準備をさらに倍にするだけだった。まず、どんな国なんだろう?インターネットで検索するも、実はあまりにも情報は少ない。書店で探してもあまりないのだ。観光ガイドには乗馬や草原への観光ツアーのことばかり。ウランバートルの市内についての情報は少ない。まして、モンゴル人の嗜好、考え方などはなかなか分かるものがなかった。そんな中オユンナさんという歌手がいることが分かった。何か聞いた事がある名前。そうだ、沢田知可子さんが一昨年モンゴルに行ったといっていたじゃないか。その時に共演したのがオユンナさんだった。さっそく、HPにアクセス。便利な時代だ。こうして少しづつモンゴルを理解していくぼくら。モンゴル語の楽曲を2曲やろう。もちろん、モンゴル語で。それも礼儀だ。だってぼくらはモンゴルに行く事を決めたのだ。調べていくと中国に出会ったときのようにたくさんのモンゴルに関わる人たちと出会うことが出来た。これが嬉しいのだ。僕らはこれが好きなんだ。そう思える。モンゴル語を教えてくれたボロー、千石にあるモンゴル料理シリンゴルでははじめて羊の髄を食べさせられた。

原爆が投下された広島の少女の歌がモンゴルで流行っている事も知った。自分達の国のことなのにそれを僕らは知らない。そして、遠く離れたモンゴルで語り継がれている戦争の記憶。日本人の無関心さが痛いほど伝わってくる。よし、この曲は絶対にマスターしよう!そうして、よちよち歩きのモンゴルへの道は始まった。少しだけ楽な点は同じ手法で中国を経験しているからであろう。頑張れば結果はついてくる。それを信じて頑張るしかない。数日後。僕らは大きな壁につかまった。「モンゴルでは中国の話題は出さないほうがいい」という事を多くの人に聞かされた。それはかなりショックだった。アジア発信のバンドGYPSYQUEEN。アジアの国をつなぐ音楽。でも、少なくともモンゴルでは中国語は避けたほうがいいというのだ。これは難しい政治の問題がある。僕らには及ばないなんとも大きな力で存在しているこの感情。一瞬とても残念な気持ちになった。音楽だから許される事はない、音楽でも越えられない壁。でも、ここで拡大解釈は止めておこう。少なくともまだ,一歩も足を踏み入れていない未知の国。だから、今は考えるのはよそう。それができる最善の事だったりする。問題はまだまだ続く。中国語の強化だ。ふー、まだまだ続くのか。この悩み。まあ、そうはいってられない。今回の公演は基本的に僕等の単独公演である。1時間半から2時間のステージをこなすには楽曲だけではなくMCの強化も必要。準備期間が殆どない僕らにとってはかなり大変な作業である。それでも、それは責任であり、よくも悪くも100%自分達に降りかかる掛け値なしの評価なのだ。人のせいには出来ない。だからやらねばならいない。プレッシャーの日々は続く。それでも、いくつかの幸運は僕らの元に届いていた。

中国好きの僕らは中国の友人を必然と求めていた、別に公演を行うからではない。ぼくらはもう中国フリークなのだ。そうして、であった二人の女神。杭州出身のマリアようよう、南京出身のジャンヌダルクじんじんである。彼女達に時には中国の流行を聞き、中国語をおそわり、時には英語を教わり、僕らは日々生活に中国文化を取り入れてきた。「最近中国で流行っている曲はなんなの?」といった具合にだ。理知的でセンスもあるこの二人は性格も異なりそれぞれものすごい個性をもつ女性だ。二人に共通する事はその明晰な頭脳と日本人を越える「回りを気にする」礼儀作法であった。そんなステキなLadyに支えられ、いろいろな知識を入手していたのである。今回は初めて明確に「中国で受ける」事を意識した楽曲への取り組みを行った。フェイウオンの楽曲やテレサテンなど様々な中国歌手に歌い継がれている流行歌である。「但願人長久」はその中でも格別に美しく素晴らしい曲であった。いつものようにその楽曲をGQ用にアレンジする。もともとバラードが多い国だからこういった流行歌は必ずスローテンポなものが多い。そこで敢えてロックのリズムを取り入れてアレンジしてみた。イメージはカリフォルニアの乾いた空気感。情緒溢れるこういった曲に明るいテンポの良いリズムをつけるのは抵抗感があるかもしれない。でも、楽曲は時にはメロと詞のニュアンスを逆転させるのも面白い。心配するメンバーをよそにここは僕を信じてもらうことにしてアレンジはできあがった。違った価値観とイメージ感が新しく生まれてくる。「たとえ離れていても私とあなたは同じ月を見ているよ」というような美しい詞のイメージ。その言葉をしっとり語る人もいるだろう。いやこちらのほうが主流だ。でも、たまには笑って駆け出しながらそう語るのもありえるな。そんなイメージでアレンジをほどこした。そして、きっとエンディング近くに配置されるだろうこの楽曲にはステージングも不可欠であるだろう。

なるべく動きやすい感じの仕上げで。。。そんなことを意識しつつ、楽曲を次々に当てはめていった。それでも、タイムアップはもうすぐ。結果的には出国まで間に合わない楽曲の調整、修正は続いた。そして、もう一つの大きな課題があった。「GYPSYQUEENの中国語はムズカシスギルネ」そういわれたことがあった。結局僕らの中国語は教科書の亜流に過ぎない。良く海外のホテルにいくと注意書きが怪しい日本語でかかれている事があるだろう。まさに、そういうことだ。僕らは躊躇せず、マリアとジャンヌダルクに翻訳を依頼した、それも任せきりではなく一行一行歌詞の意味を伝え、メロディも伝え完全な中国語曲へ修正していったのだ。こうして、「翼を広げて」と「I wanna be born in china」が生まれ変わる事になる。これで、バッチリだ。だって僕らが聞いても明らかに中国語っぽくなっているもん。


僕ら日本人がまったく分からない中国ならでの常識、言い伝え、表現方法が加わり中国唄として生まれ変わったのだ。今回は、前回よりもいろいろな点が変わっている。政府の主体事業であり、また、自分達の完全ワンマンコンサート。スムーズにいくのだろうか?いや〜難しいだろうなぁ。それでもいいだろう、それで充分なことなのだから。さらに、北京のファンキーさんを通じて新しい出会いも会った。Beyondのドラマーwingである。もともとBeyondファンクラブの熱心な招聘要望にwingが前向きに対応してきた事に始まるが、その中心に僕らも参画していった。「上海で一緒にやろうか?」ふとそんなことが頭を巡った。次の瞬間にはwingに連絡をつけるために各所に連絡をし始める。ぼくらはいつもtime is moneyなのだ。

交渉も多岐にわたり、日々案件は増え、吸収できずにこぼれてきた作業が次に進む事を拒む。でもここは強引に進めるしかない。
脱落者は出ないでほしい。でも、僕らは自分のことで精一杯だ。一人で孤独に目標を目指す宇宙探査船のようだ。そんな今の自分たちのイメージを伝えるために、ドライブ感のある新曲Cassiniも準備する。日本より先に中国で新曲を演奏する。それがアジア人としての第一歩でもあると思う。そうかな?しかしそれも自分達を高揚させるマジックなのだろう。いざ出国の一週間前、とうとう熱が出た。またもや40度を越えている。3週間前にも同じ症状が発生した。完全にダウン。「やはりむりしているよな〜」自分でもわかる。でも、仕方ない。人の二倍をこなす僕らに常識は通じない。日常は全て飽和状況。準備は一気に集中してしまった。備える事を怠るのが人間なのか。こういうときに日ごろの鍛え方が差となるのだ。「次はやろう」「がんばろう」そうおもった日々。

「ちょっとむりだよね」「うーん、できないな〜」今の自分がいる。生活の中で難しい事はたくさんある、それは充分承知で生きてきた。その結果苦しむ。意識と実情の差。日常への警鐘である。それでも出発ももうすぐ。どんな、どのような出会いがあるのだろう。そう思うだけでわくわくする。目の前にぶら下がったにんじんが見えてきてやはり人はダッシュをするのだろう。追いこまれてあばれるしのん。僕も余裕は完全になくなっている。何の為にここまで??時より脳裏をよぎるこの意味合い。いけないことだがしかたがない。熱もだましだましでようやくスタートラインに立つときとなってしまった。いよいよ明日だ。明日には全てがはじまる、楽しみだ。期待を受けてあとは前に進むしかない。気持ちと経験は充実してきた。もう一歩なのだ。そんな日々を越え、旅立ちの日はやってきた。そして、出発の朝が来た。





 
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