
| 5月23日 ちょっと遅めの朝食をとる。このホテルは四つ星クラス。そのせいか朝食もインターナショナルだ。 まさに中国式といわんばかりに圧倒してくる朝食と違いビュッフェ形式。もし、最初の中国ツアーでこういう環境であればあそこまで落ち 込まなかっただろうと思いつつも美味しく食す。9:20にロビー集合。今日は日本大使館に向かう。すぎやんは万里の長城に向かい、僕ら は大使館へ。別々の行動もツアーになれたおかげだ。大使館は今、瀋陽の事での直後という事もあり本当にいけるかどうかぎりぎり まで心配であった。日本の報道しか見ていない僕らにとっては「特別な」ことが起きているに違いない。そうおもわざるをえない。これは 日本に住む国民ならみんなそうおもうことだろう。そのへんの事を現地の中国人に聞いてみると意外な答えが返ってきた。「中国では そんなに大きな問題になってないよ、日本はマスコミが騒ぎすぎるのではないですか」そうだ、何かと日本のマスコミは情報過多である。 情報が多いことは問題ない。いい事だ。問題なのは情報を理解出来るか出来ないか。誰もが背景も関係なくその時に流れるニュースを 疑いなく受け取る。自由はいいことだしここで思想論を展開する気はまったくないのだが、僕が思うにちょっと「無責任な第三者」があまり にも多くなっている国であると思う。もっと一人一人の見解はないのかな、と。ま、そんなことをおもいつつバスは大使館街にはいった。 新緑と整然とした町並み。 そんな中に日本大使館はあった。大使館につくとパスポートの提示を武装警官に求められた。まわりは鉄条網で仕切られている。なにや ら、日本のカメラクルーも「何か」というときのために控えている。緊張した雰囲気。そしてあっさりと「隣の建物です」と言われ緊迫の大使館 入り口から離れる事になった。隣に立つ大きなビルに大使館の文化部は入っていた。ここでも緊張。接見という言葉がいいのだろうか?僕ら は日本大使館の人にあうのだ。なんとなく大きな役職に圧倒され、ちょっとだけ小さくなって大使館の扉をたたく。 そして、僕らの表敬訪問は行われる。今回の最大の目的は「理解の促進」それを行なって何を期待するでもない。ただ、同じ日本人とし て、中国に行ったら中国でがんばっている人たち、日本と中国の橋渡しをしている人に挨拶がしたいではないか。そんな簡単な理由だ。 あと、ほんの少しでも民間人として日本と中国の事を考えているバンドマンがいるって言うことを知ってほしかったのかもしれない。 だって、いわなきゃ人はわからないもの。いわないでもわかってというのは奥ゆかしさか、いや、いえないだけじゃないの。と思う。 音楽というちょっと変った切り口であってもその国にいる同じ国民の仲間として、表敬訪問をすることは大事だと僕らは思ったのだ。 緊迫の一瞬、しかし相手はとても気さくで、かつ見聞も広くバンドマンの僕らのことを理解してくれた。すごくビックリ。 一つ一つの言葉にリラックスさせられた。圧迫感もなくスムーズに僕らは話したいことを話せた。力のある人はこういうものなのだと 常日頃から思う。おばあちゃんが教えてくれた「能ある鷹はつめを隠すっていうんだよ」子供のころに作法を教わった。だから、こう いう人と会うととてもうれしくなる。だって、本当にきっと偉い人なのだろう。そういう人が真剣に僕らと話してくれるのだから。 純粋にうれしかった。政治の世界は民間の僕らにわからない空の上の事と思うことは間違いではない、それぞれの持分、役割に よって世の中は成り立っている。知らないと理解しなくなりがちでもある。ちょっとねたんだり、批判したり。 でも、そんな人たちも僕らと同じように、いや僕ら以上に真剣に国と国のことを考えている。そして、夢をもっている。その人がこの 国へ日本の代表者の一人として鎮座しているということであれば、僕らも安心して中国へのアプローチを進められる。これも日本のマ スコミとそれを受ける者の未熟さだが、外務省=いい加減と思うことはとっても危険な発想であるとおもう。それはロック=不良の 音楽と位置づけられることに等しい。時代錯誤。そう、あなたはあなたの目と耳と脳みそで人と会話して判断してほしいと思う。 いろいろなことがわかるはずだ。話を戻す。ここは青年の主張ではない。 緊張感ある会話は順調にスムーズに行われた。特に音楽に興味をもって頂いていて「自費持ち出しのアーチスト」に大変理解を示してく れたのだった。「頑張ってください」そういわれてほっとした。よかった。訪問して正解。これからも僕らは自分たちを信じて、わが 道を進みたいとおもう。非常識という名の常識に本当の既判力ある常識の植え付けである。そして、大使館をあとにした。僕らは天僑劇場 へと向かう。アポなしであったが、ここはそんな事をいっている暇はない。とにかくできるかできないかの二つしか結果はない。 中国のど真ん中北京で起きる事は全てこの国の慣わし。そうかどうかは分からないけれどそう思ってとにかく真っ直ぐに思いのまま 突っ切ろう。そうすれば4日後に答えが出てくる。突っ切った先の世界が見えるはず。 劇場は北京の南に位置する。どちらかというと南の地域はまだまだ整備されていない感じがする。工事の埃が舞うデコボコ道を抜け、突然 恐ろしくすばらしい劇場が現れる。なんてっこった!こんな急にすごい建物が現れても!おそるおそる会場に近づく。だれかいるかな? メインホールにはいると、いきなり全員がいた。リハーサルがちょうどおわったとのことだった。呂遠さんは昨日の約束を覚えていてくれて 喜納昌吉さんを紹介してくれた。喜納さんは「あんたたちみたいに若い人が友好のためにやっているってことはいいことだよ、日本でも一緒に 何かできるといいねぇ」連絡してよ。と気さくにも名刺をくれた。うーむ、価値ある一枚。僕らも喜納さんの「花」をカバーして中国 公演を行なっている。「喜納さんの曲、勝手にやって申し訳ないんですが、でも中国の各地でとっても評判いいですよ、どうもありがとう ございます」とお礼を言っておいた。なんどこの「花」によるお客さんの盛り上がりに助けられたことであろうか。打ち合わせを簡単に 行い、ようやく明日の集合時間を確認し、今日の午後の予定がないことも確定した。さっそく北京放送に電話を入れる。今日の午後うか がって良いですか、と。アポも無事取れた。これで今日はほとんどフリーの時間はなくなった。分刻みであいさつ回りとなる。 昼食には北京恒例のペキンダッグを日本じゃ考えられないような量と価格で食す。アイヤー タイハオチーラ!(とってもうんまい。) 昼食をすませ、北京電視台に向かう。一直線の道路を幾重にも車が交差する。日本だったら交通事故の連続だろう。でも、中国のドライバー は運転がよほどうまいのかまったく気にせずまた、事故もなく道を歩くように走っていく。北京はとても平らな街で、起伏がほとんどない。 それは、自転車の普及を急激に増やしたのと関係があるのかなと思う。まっすぐな環状線を走り、30分、北京電視台につく。そこには 2ヶ月前の懐かしい顔、櫨さん、沈欄、張さん、高さんと勢ぞろいだった。笑顔で出てきてくれた彼ら。なんだか緊張する。 みんな背が高くなったんじゃないか?記憶を手繰り寄せつつも挨拶をおこなう。今回の挨拶は特に話すこともなく前回のお礼を言うことが 最大の目的だ。また、北京での音楽活動というものについても聞きたかった。 しかし、何故か言葉が出ない。ここは北京の放送局のカフェ、周りはすべて中国語だ。 圧倒されそうな中であれほど話したかったセリフが満足に出なかった。なさけない、ボクは中国語が話せない。 以前、僕の尊敬するニュースキャスターの自伝を思い出した。 当時、まだ留学なんていうものが当たり前でなかった時代、その人はアメリカに留学に出た。もちろん親やまわりはみんな反対。だけど 彼女は希望と自信を抱いて飛行機に乗って渡米したのだ。そして、飛行機の中でパーサーとのちょっとした会話があった。簡単な会話 だったが、それがまったく通じなかった。パーサーはまわりのスタッフにいった「彼女は英語がはなせないわ」と。それから一転して 口数のすくなくなった彼女にホームステイ先のマムはいったそうだ。「アメリカでは話さないということはいないと同じ、だからどんどん しゃべって!」。そんな話を思い出した。今日の僕はそれに近かった。悪いことに一度通訳をしてもらうともうだめだ。誰と話しているの かわからないほど頼ってしまう。なさけない。何も話さない自分。何をしに来たのだろうと思われても仕方ない。自己嫌悪。結局思った 事の3分の1ほどしか会話できずに局を後にする。話をしないでうなずく日本人、うすら笑顔が引きつっている日本人、心の奥底が 見えない日本人。もっとたくさん話したかったのに!また、会えるだろうか?きっと会えるだろう。リベンジの再チャンスはつかめる だろうか?そう思って再開の握手でわかれた。 バスに乗り込む。一息つく。一つだけうれしかったのは彼らはよく僕らのことを覚えていた事だ。それってとても嬉しい事だ。もうち ょっと頑張らないとな。と思った。 北京電視台を出た僕らは北京のさらに西、北京放送へ向かう。あさっての特番を前に会場のチェックをしなければならない。会場は見て おいたほうがいいし、何よりも事前にスタッフに会いたかった。30分ほど猛スピードで一直線の道を疾走し、北京国際放送に到着する。 郊外ということもあってか、これもまたりっぱな建物だ。設立60周年というこの放送局は40カ国もの世界に広がる華僑に中国の声を 伝える役目を担っていると同時に、国内への留学生、海外企業の貴重な情報源となっている。局に到着すると、小柄な王さんが走って きた。元気な笑顔を見てなぜかほっとする。着いたらどうやって彼女を探そうと思っていただけに一安心。今回は彼女の尽力によって 成し得た公演だ。非常感謝!さっそく局内に入る。 レコーディングスタジオや収録中の番組を見させてもらう。基本的には日本と変わらない設備だ。当たり前のことだが発展していると いうよりも当たり前のように日本と同等の放送を行っている。エンジニアたちも若くてきびきびしている。ここは日本の放送局と違う ところかもしれない。ルーズなかっこよさのイメージはなく「物を作る」エンジニアスタイルの風情が立ち込めている。 その後、局内をいろいろ見せてもらった。途中蘇越さんという中国の作曲家の人とも会った。レコーディング風景やラジオの収録室など 興味深いものがあった。王さんの手配は完璧で、すぐにでもライブができそうな感じだった。特に今回録音技術の関係でドラムをカラオ ケで、と言われていたが、明日の様子しだいで生バンドでできる可能性もでてきた。「せっかくなのでドラムの方がかわいそうですよね」 そういった気遣いまで完璧だ。 また、前の週に僕らの特番をやってくれたおかげでリスナーからものすごい数のレターが届いていた。ジプシーのファンクラブに入りた いとか、はじめて女性シンガーを好きになったとか、たくさんの手紙の山を見せられ責任感も沸いてきた。よし!みんなに喜んでもらえる 演奏をしなきゃ! 十分過ぎるほどの打ち合わせを行い局を出る。中国の公演でこんなにしっかりと打ち合わせをしたことはない。 最終日の公演いついてはなんとなく満足できた。 バスは一路ホテルへ爆走する。異常な揺れも耐えれるようになってきた。そして、18:00ホテル着後、すぐに夕食に出かける。 バスに酔ったか?体調は今一。でも、今日はまだまだ長い。夕食後環状線を走り昨年の会場「保利劇院」の横をとおり三里屯に到着。 人の波を掻き分け、懐かしのPOWER HOUSEにたどり着く。着くとオーナーが僕らを覚えていたらしく、歓迎笑顔で待っていた。 「又一次来到パワーハウス!(またきたよ)」と言うとオーナーも喜んで握手を求めてきた。ライブハウス内も去年と一緒。 昨年の僕らの分岐点は今年も変わらずであった。ライブは当初9時からであったが、次第に遅くなり結果的には10:00からのスタート となった。北京留学をしている仲間も集まってきてくれてなんだかここが北京のライブハウスであることを忘れてしまいそうだ。 居心地の良い空間。すぎやんに「やっぱりさー定住しなよ。ビール安いし」このセリフも去年と一緒であった。結局22:40スタート して23:30にステージは終わる。今回は入国祝いということでブッキングしてもらい3曲しかやらない状態。康定情歌、朋友などの 中国曲を中心に行う予定だ。 ライブが始まってみるとあっという間に盛り上がった。やはり中国語曲は受けがいい。もともと中国語は発音が聞き取りにくいので歌詞 としては同じ中国人にとってもわからない部分がある。その点は誰でも一緒なので、気にすることはない。 朋友などはお客さんが一緒に歌ってくれた。しのんも感激。もちろん、ボクも感激。それって友好でしょ?もっと中国語のレパートリー を増やして行こうと思う瞬間である。 ライブが終わると「おつかれさん」と真横の席にいたグループがあった。その人はファンキー末吉さんだった。まさか北京で会えるなんて! 偶然とは恐ろしいものだ。僕らのバンドを見てくれていたのだ。信じられないよね。中国ではこんなまれな事が起きるのだ。不思議だ。 今度中国の業界の人を紹介してくれるといっている。「なんで、中国でやってるの?ぜんぜん持ち出しになっちゃうでしょう」中国ビジネ スの厳しい所でもある。貨幣価値を考えればペイするはずなんてありえないとファンキーさんは知っているのだ。 「こういう人が、あんた達みたいな人がさ、たくさんいると面白くなるんだけどね。」そう話すファンキーさんはなんかかっこよかった。 さらに話してみると大体、今回僕がお世話になっている中国側の担当者を知っていた。こんなに広い北京なのに。 こんなにローカルな事でよいのか? いいのだ。それでいいのだ。 午前2時ホテルに戻るうーむ、今日は長かった。いったい何日分の事をやったのだろう。 朝から数えて。。。わからない。何食べたっけ 酒も飲まず寝る。中国は広くてでかい。 明日は本番だ。どんなことがおきるかわからない。とりあえず寝ておこう。 |
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