Hear my song
2002/05/22-2002/05/26 北京


1.Back to the CHINA
「やっぱり中国は最高だね」ここのところメンバーと会うたびに必ずこの話題が大半を占める。全員が中国に陶酔しきっている。そのためか何故かこの仲間たちが集まるところは決まっていて中華料理屋である。ちょっとだけ覚えた中国語ですぎやんは店員に話し掛ける。ワンシャンハオ!(こんばんは)と。
オーダーをしても何をしてもそれしか言わないので店員もさぞかし困るだろう。それを聞くたびに大笑いする潤坊。「杉山さんそれどういう意味ですか?」そう笑う潤坊にいつも「まーいいっていいって、やいのやいのいわないのー」漫才師のような二人だ。
そんな中、北京から僕等の老朋友「徐軍」が来日する。今まで中国では限りなくお世話になったぼくら。まるで赤子のように何もできない僕等の要望をただただ実現に向けて動いてくれた彼。感謝しつつも何も返せない自分たちを恥じていた。こんなのはいやだ。しかし、ここは一気に挽回!徐軍さんが日本にくるのなら日本流を見せてやりたい!そう思って準備を進めた。日本を満喫するフルコース。酔いの回った徐軍を見ていてすこしほっとした。

彼は言った「GQはもっともっと中国人の気持ちを知ったほうが良い、これから中国はどんどん変わっていくと思う、その中で今、本当に中国を好きになってくれるのはGQだと思う。だから今頑張って中国で有名になってもらいたいんだ。それは今しかないんだ」
熱く語ってくれた彼の言葉に不真面目なメンバーからはもう、ふざけた会話は出なかった。「北京に来たらいいライブハウスをセッティングするから是非みんな頑張ってまた北京に来れるようがんばってほしいんだ」そうだね。徐軍さん。「がんばらないとな。」たまには真面目な話も良いもんだ。


そんな中、僕らの三回目の中国公演がきまった。今回も例によって急な決定ではあった。思えば丁度一年前。北京から日本に帰る機内の中で程さんが僕らに言った「来年は万里の長城でやりませんか?」との一言。「ありがとうございます!」とは言ったものの、それから何の音沙汰も無い。まあ、社交辞令ということもあろう。それにあまりにもとっぴだ。
万里の長城でコンサートができるわけあるものか。そうおもっていた。いや、思うことで「過度な期待」を諦めていた。そんなある日程さんから連絡がある。「最近元気ですか?」一緒に京劇を見に行こうというものだったが、残念ながら僕は参加できずしのんがその席に向かった。久しぶりの会話。その中に「万里の長城」は生きていた。それをしのんから聞いた僕はまたもや急に期待感を持ち始める。そしてもやもやの中数ヶ月。今度こそ忘れていた。だって、予定の五月はもう目の前なのだから。今からでは無理であろう。いや、OKだとしても僕らが無理に決まっている。「やっぱり中国は最高だね」冒頭の会話に逆戻りだ。しかし、付け加えて言えば「また行きたいよね」という期待感と焦燥感が否めなかった。


三回目はあっという間にきまる。それはCCTVによるテレビ番組であり万里の長城で行われる「長城之春 国際音楽節」であった!「やった!またいけるぞ!」それもCCTVで何度も放送される番組だという。「音楽之旅」というCCTV4chで放送される番組だそうだ。万里の長城は僕らの一つの夢であった。いつかは長城で演奏をしてみたい。こんな夢のような事を思い描いていた。苦節1年。ようやくたどりつけました!ん?一年?ちょっと待て、そんなに簡単に事が運んでいいのか?裏は無いか?


本当なのか?メンバーの前に自分自身が疑ってしまうこの事実。その予感は的中した。「万里の長城は今回ではなくなりました、今回は北京のとても大きな劇場でコンサートをやりますよ」日を同じくして告げられた言葉にがっかり気分。でも、待てよ?がっかりする事なんかない。僕らは三度目の中国行きのキップを手にしたのだ。確かに万里の長城と思っていた気持ちには水が差された、しかし、それ以上に現実として北京での公演は魅力的なものである。昨年の公演では満足に思い出せないくらいに混乱していた僕ら。言葉のわからない、やり方の違う異国文化に押しつぶされた演奏。それをきっとこっけいに見てたであろう北京市民に対してもう一度、僕らの演奏を見てもらうことができるのだ。これはリベンジだ。
もちろん友好のね。今度こそ僕らの力を、本当のGYPSY QUEENを見てもらうことができる。そう思うと思い出話に明け暮れてた心に火がついた。


僕らが出場するコンサートは「中日友好国交回復30周年記念呂遠作品コンサート」だった。これは中国第一級作曲家の肩書きをもつ呂遠先生という作家が中心となって行われるコンサートで毎年開催されているらしい。このイベントは本来万里の長城で行われているという事であり、程さんの最初の話もまんざら違っている話でもなかったのだ。この呂遠さんという人がどういう人なのかということはまだ分からない。ただ、日本通の方ときくだけで少しほっとした。そして、その日をきっかけにまたもや、朝令暮改、変更と調整と霧の中の生活に陥っていった。今回のコンサートは主催も全て中国サイドであった。程さんも一人の出演者であり、情報は「ワタシモワカラナイヨ」という状況である。


これ以上迷惑をかけたくないと思った僕らはとりあえず今だ知らない「呂遠」さんに直接聞かなければいけなかった。どうすればいい?「聞かなくちゃね。」「そうだ、聞かないとなにも分からないね」「じゃあ、聞こうか」「うん、聞こう」「電話する?」躊躇するのは仕方ないよ。だってまったく知らない人にこれから全てをゆだねるために連絡を取ろうというのだから。さあ、勇気を出して!という事でしのんが電話をかけた。挑戦は最高の勇者だ。2分で1000円くらいの国際電話で得たものはとても大きかった。まず、呂遠さんは流暢な日本語を話せる人であり、温厚な方だった。これだけでも肩の荷が半分降りた感がする。さらに会場のことや、当日出演するほかのメンバーの名前も聞けた。日本からは喜納昌吉さんも出演するという。
「ハイサイおじさん」の喜納さんだ!と僕はすぐにおもった。まさに沖縄の香り漂うフレーズがすぐに思い出される。一般には「花」の方が有名か?僕らもカバーしているこの曲の作曲者に会えるなんてなんてめぐり合わせなんだろう。そう思わずにいられない。「あなたたちを歓迎します。待っていますよ」流暢な日本語。そして恐れ多い光栄な言葉にして、僕等は再び中国に帰ることになった。


やると決まればいつもの如く動きは速かった。まずは全体行程が見えていない。ということはなーんにもしない時間が多いということかもしれない。これは前回珠海で痛いほど味わった。それは危険だ。テンションの下降どころかクオリティの低下にもなる。緊張感をたもたなければ!そんなとき、昨年TBSでふと知り合った王さんが頭に浮かんだ。「そうだ、北京にくるときには連絡してね」って言われていたっけ?王小燕さんという北京放送のパーソナリティもこなす彼女は小柄でとても頭が切れる才女だ。きっと今回の北京入りについて話せば何かしら相談に乗ってくれるだろう。もしかしたら出演させてくれたりして。そういった期待も半分でメールをしてみる。


中国式をある程度わかりつつある僕等はすぐに返事がくるなんておもわなかった。むしろ、帰ってきた頃に連絡があってもおかしくない。そんなやり方が分かりつつある中、王さんからは素晴らしい期待はずれの回答がきた。「あなた達が来たら是非番組に出て欲しいんです」なんとも嬉しいお知らせ!光栄極まりない!「もちろんです!是非、出演させてください。北京放送は北京から世界に放送を発信している60年もの歴史を持つ放送局。そこの番組にゲストででるなんてそれは光栄だ!なんでもやります!というような内容で王さんにメールを返した。こんなとき何時も思うのはメールの素晴らしさ。偉大なるコンピューターを生み出した天才たちよ!感謝します!


それからは日々、続々と話が進むことになる。当初ゲスト出演と言う事だったが、王さんの計らいでなんと!北京放送のスタジオ内でライブをやることになったのだ。それもMUSIC STATIONという北京の若者向けの番組の公開録音。スタジオホールなので200人位のお客さんを入れてトークも行うというまさに「GYPSY QUEENの特番」であった。更に、その前の週からGYPSY QUEEN特集を組んで盛り上げ感を作ってくれるという。これにはみんな興奮気味だ。「どうしよう。中国語おぼえなきゃ」トークと聞いた瞬間バックのメンバーたちにも中国語が襲い掛かってくる。これは頑張らないと!そう皆思っていることだろう。そして、結果的にはこのライブは国交回復30周年という冠もつき、スポンサーがついた一大イベントとなってしまったのだ。
(王さんから「ライブが一つ格上げされました!」というメールをもらって本当にビックリ)とんとん拍子という言葉はこのことだろう。それくらい順調にすべての話はすすんだ。あとは僕等の演奏とトーク次第。またもやプレッシャーである。何しろ、自分たちの特番が出来るのだ、それも中国で。2時間の内、何度かはMCが助けてくれるだろう。それでも基本は僕等の公開ワンマンライブもちろん初めてのことをやるわけだが、それを北京で一番最初に行うことになるとは!よし、やり甲斐が出てきたぞ!今のメンバーなら大丈夫だろう!ここらでみんなの底力を見せてやろうじゃないか!リハーサルに気合が入る。出発まであと少しなのだ!


そんな、緊迫した日程の中、どうしても拭い切れない不安があった。それは今回僕等はなんのために中国に行くのだろう?ということ。そんな根本的な事を今更、ともおもうが慌しさの中、ある程度全体が見えてきた今、あらためておもうのだ。本当に何故行くのだろうか?もちろん、僕等の音楽を伝えたい、日本と中国の友好のために頑張りたい、新しい仲間を作っていきたい。
そういった「理由」はたくさんある。しかし、それにしても僕等が中国に行くためには莫大な工数と大勢の人々を巻き込んだ「作業」が発生してくる。それらをすべて飲みこんで「僕等は中国に行く」と言いきれるのだろうか?その代償は?与える対価は?そうおもうと答えが急に見えなくなってくる。これを「むしのいい話」というのではないか?と思ってきた。


中国に行くには本当にものすごく大変な作業がある、それを乗り越えていくのだが、行った僕等はいい、でも周りの人には何を残せるのだろうか?過去の歴史においてもバランスは必ず成立しており、どちらか一方が利益を専有すると言う事は「すべての崩壊」に結びつく。そんなことは子供の頃から学校で習ってきた。平等。すべてにおいての平等はありえない。であったとしても僕等の語る平等は少なくても北京の町のようにまっ平らな物でなければいけない。傾きはひずみを呼び、いずれひび割れてくるだろう。熱して熱い鉄はまだ軟弱だ。いくらでも形を変えることができよう。しかし、3度の訪中によってもうぼくらは「形」を固めつつある状況ではないか?そうであれば物質としてのバランスをここで決めていかないと、ただの自由という名のわがままな存在になってしまうのではないか?


ここ数日ずっと頭から離れない事だ。一人一人の考え、生き方を聞いていればいるほど、まとまりようのない話に飛躍して行く。個別の意見を集約すれば大変なことになるのは分かっている。今は、なんとか形を作るために僕が「型」にはめるしかないのだ。中国に対するそれぞれの思いだけでなく、生活に対する思い、音楽に対する思い、すべてだ。すべてを網羅しまとめない限り、GQの目的というものは消えてなくなる。そう感じた。こうして、日々一瞬よぎる不安は生まれて初めての「ジンマシン」となり、注射の嫌いな僕は続けて3日間も医者通いとなる。「あーつらい、注射なんて1年に一回でいいのに」そう。このなやみは僕に3歳余計に年を取らせてくれたようだ。


そこで行きついた結論は「CDを売る」という事だった。過去2作作ったCDを中国で売るのだ。言うのは簡単で実は過去もなんどかトライした。しかし、やはり国の壁が厚く、「売ることはできない」との答えしか、なかった。どうしよう。CDを売れなければ形に残らない。形にさえ残ればぼくらの「何故?なんの為に?」に一つの解がでる。徐軍さんに相談し王さんに相談し、できるかぎりの手を尽くした。そして、ようやく出た答えが「ライブハウスの中で売っていいよ!」だった。やった!これで一つの形を残せる。今回は試しに売ればいい、そこでいろいろ吸収できるはずだ。そうすれば「僕等は中国語の曲を作って中国でCDを販売していく」という中国への具体的な方法論が見えてくる。


その次にはCDを売っていくためにプロモートが必要となる。という明確な答えがでるからだ。
悩みも大幅に解消し、気持ちも軽くなってきた。出国まであと数日。もう、これから用意することはできない。
今の持ちネタで勝負する。覚悟は決まって、体調も回復。続けた禁酒のおかげで寝起きもいい。よ〜し、頑張るぞ!

北京では楽しい事が起きる予感がしていた。
2月の春節の番組で一緒になった南京在住の「南ドン」が偶然北京で公演をおこなっているのだ。
中国ではあまり会話する余裕もなかったが、帰国後メール仲間となった彼とは南京での再会を約束していた。
それもまたなんの根拠もない「予定」であったが、いつか南京に再び行きたい!そうおもっていた。不思議な事に、むしろ帰国後の方が「本当の友人」になった気がする。中国というフィールドについていろいろお互いの悩みを語った。中国という共通の好きな国とそのギャップに悩んだ気持ちは充分分かり合えるに等しい経験を積んでいた。そして、こともあろうか、僕等の再会は現実味をもってきたのだ。それが北京なのだ。「南京の友人と北京であえるなんて!」は「珠海であった日本人に北京であえるなんて!」という彼の喜びと同期した。
彼は才芸大賽で演じた芝居が評判よく、今回北京のCCTVにて収録のため、北京入りするのであった。うーむ、これもまた運命。そして、南ドンの紹介にてさらに北京の友人と知り合うことになる。僕等のHPをみてライブに来てくれると言うのだ。まさに理想の展開ではないだろうか?人が人を結び、音楽によって絆はよりいっそう強くなる。現実となるとなかなか無い事だとおもう。でも、今はそこに直面しているのだ。


「ところでライブハウスってどこでやるの?」「いや、わからないんだ」もううんざりするほど同じ質問。オウムを飼っていたならかわりに答えさせよう。「ワタシニモワカリマセン」と。
行けばわかる。行けばライブハウスもあり、そこでCDを販売できお客さんと盛りあがれる。今までの中国で分かってきた事だがまわりには決して理解されないことだ。という自分も少しばかりの不安はある。どんなところだろうか?中国式には方程式があって、連絡が無いのは進んでいる証拠という事がある。現に今回もそうであった。渡航ぎりぎりのタイミングで「三里屯のBOY&GIRLにきまったよ。北京一人気のライブハウスです」とのスペシャルな回答がくる。奥ゆかしいのだろうか、こんなに良い話なのにきまるまで一言も漏らさない。僕だったらついつい話してしまうそうな良い話。でも、決定するまで伝えないというのは気質なのだろう。
そして、これでおおよその概要が決まった(もちろん細かい時間やリハのことなど現地にいってからだ。そこまで期待するのはよそう。そこは日本ではなく中国なのだから。


最終リハでは、つい先日入手した呂遠さんの楽曲に悩んでいた。今まで聞いたことの無いビート感はどうアレンジしても違和感がある。通常曲というのは区切りがあってだいたい4小節で一かたまりとか、またそういうような規則性がある。この曲は3拍子なのだが、それにも当然規則性はあるのだが、その区切りが見つけられないのだ。いわゆるオブリガードを入れる余地が無い。切り返し地点が発見できずそれぞれがそれぞれの感覚で切り返すので今一まとまりが悪くなる。メンバーがいらいらし始める。いつもならほんの10数分で解決してしまうような事に2時間以上費やす。「うーん、難しい」奥深い中国音楽の洗礼。潤坊も流石にコードワークに苦慮している。通常、気持ちいいリフがくるところに、次のメロディが入り弾きどころを失うマチャ。それでもいろいろ志向錯誤を繰り返した結果ようやく形になった。どっと疲れが出た。うむ、奥が深い。実際にできあがって見るとそれは情緒的であり、滑らかな曲線を描くような、そうだな、ジェットコースターが走っているようなメロディラインが見えてくる。なんだ、結構かっこいいじゃないか!


人って不思議だ、気分次第で好きにも嫌いにもなれる。
得意にも不得意にもなれる。あやうく深みにはまりそうだった僕等は何とか難をまぬがれた。そして、できあがった曲が「我らの生活に太陽の光を」だった。中国語の美しいメロディーにGQなりのブルースアレンジを加えた2002年日中合作の完成だった。

そうして、ぎりぎりの今日。準備がある程度終わった。もう日本でやれることはない。いよいよ明日出発だ。
今回もばたついたがそれにもなれてきた。いい結果を残そう、そうすることが次につながる。
言い訳のできないツアーが明日から始まる。







 
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